自由であることの怖さと責任
あいちトリエンナーレ「表現の不自由展」で表現の自由とは何かが問われていましたが、、、
驚きと怖さと責任
これは私自身の経験談です。自由であることの怖さと責任を感じた時の話です。
大学へ入学して1つ目の課題で、私は驚きと怖さと責任を感じました。それは、課題を通して感じた「自由」であることの意味の重さでした。
私が通った大学では、合格するためには学科と実技(デッサン・色彩・立体)の2つを学ばなければなりませんでした。実技をやることは好きで毎日手を動かし励んでいました。その時は画塾(実技に関する予備校みたいなもの)で課題を出され、その課題に求めれているものが何なのかを考え、意図にそった作品を制作し回答するといった感じでした。
ですので、出題者や練習のポイント、求められている意図にちゃんと答えなければなりませんでした。そうしないと評価されません。それは一見自分が考えたものを色や形にしている自由な表現と思い込んでいました。自分が創るもの=自由な表現と思っていました。
しかし、それは既に出題者(先生)の意図の中で自分なりの自由に表現をしていたのに過ぎなかったのです。
大学入学後に話を戻します。
最初の課題が「教室からでましょう!」「自分でテーマを決めて作品を作りましょう!」みたいな、かなり放置状態の課題だったと記憶しています。課題としては出題されていますが、規制は殆どありません。モチーフ(対象とするもの)、画材、表現方法すべて自由な課題でした。
私は、あまりの自由さに何をどうして良いか分からなくなりました。今までは受験勉強では特定の力を付けるために制約の中で表現をしてきました。振り返り考えてみると受験勉強だけではありません。高校生活、その他すべてにおいて規制された一定枠の中で守られて生きてきたことに気づきました。
何をしても良いと言われたら、何をして良いか分からない。
自分の無力さを痛感しました。
そして、自由になるという事はすべてが自分にかかっている。この手で生み出さなけfば何も生まれない。意思決定はすべて自分の手中にあり自分で決断しなくてはならない。何をつくるかも任されている。ということはその作品にも全責任を持たなければならないし、関わる全ての人への影響や責任も考えないといけない。そう思いました。
自由とは好きにやって良いと引き換えに、全ての責任を背負うことだとわかりました。